働いていたからこそ得られた「介護の知恵」

「昨日まで元気だったのに、まさか」駆けつけた実家で目にしたのは、暴れる父と、怯えてお酒に逃げる母――。突然の“介護”の始まりでした。仕事もあり、医療や制度の壁も立ちはだかる中で、どうにか日々を乗り越えようと動き続け……。先の見えない状況の中で、何を選び、どう行動していったのか、お話を伺いました

三刀流 50代女性 派遣社員
家族: 夫・子供2人(独立)
要介護者:実父・実母・義母 いずれも別居
怒りの矛先は介護者へ。突然始まった父親の介護
「昨日まで元気だったのにどうして」――
前日までゴルフを楽しんでいた83歳の父が、突然、激しい頭痛を訴えました。「痛い、痛い!」と叫びながら、自分の頭をこぶしで叩く父。救急搬送されたものの、病院では「原因不明」と言われ、痛み止めだけで帰宅となりました。
しかし薬を飲んでも痛みはおさまらず、次第にその「痛み」は「怒り」へと形を変え、矛先は母へ。
私が週末に実家へ帰ったとき、そこには真っ暗な空気が立ち込めていました。動けず排便障害を起こした父が、自分を叩きながら大声をあげ、母はそんな父から逃げるようにお酒に走る――。どちらも限界でした。
「病院に行っても助けてくれない! 誰か助けて!」
そう思った私は、月曜日の朝、地域包括支援センターに駆け込みました。そこで提案されたのは「大学病院への受診」。思いもよらない言葉でしたが、その一言が、暗闇の中でようやく見えた“光”でした。
それからは、かかりつけ医、地域の病院、大学病院――。何日も仕事を休み、父の通院に付き添いました。そして、ようやく「難病」と診断され、即入院。「救急搬送されたときに見つけてくれれば……」と、思わず肩を落としたのを覚えています。
その後、父は胃がんも発症。三度の転院を経て、4か月後に旅立ちました。
入院してからは、父の怒りの矛先は母から私へと移り、暴言や否定の言葉に晒される毎日。私は「うつ」と診断を受けながら、父が亡くなるまで介護を続けました。
そして父が亡くなった後、自宅に残された母の様子がどんどんおかしくなっていきました。認知症の症状です。父の暴言や恐怖の日々が、母の心を深く傷つけていたのだと今では思います。
もっと早くに動いていれば…。知識不足が生んだ後悔
父が倒れる半年前、私は地域の介護講座を受けていました。そのとき「元気なうちに介護認定を申請しておくと安心ですよ」と教わり、さっそく両親に勧めたのです。
でも、父も母も「まだ元気だから」と笑って拒否。
――いま思えば、これも“介護あるある”のひとつでした。あのとき申請してくれていたら、あの怒涛の4か月は少し違っていたかもしれません。
なぜなら、実際に介護認定が下りるまで、なんと3か月もかかったからです。
父の暴言から母を守るためには、父の退院後の介護計画と、母自身の介護計画を同時に進める必要がありました。でも、父の介護保険は「暫定利用」という中途半端な状態。ケアマネジャーさんも歯切れが悪く、先が見えないまま、私の心はどんどん削られていきました。
「私が仕事を辞めて介護するしかないの?」――そんな不安が頭をぐるぐると回り続けていました。
ようやく介護認定が届いたのは、父の体に“ステルス胃がん”が見つかり、すでに手の施しようがないと宣告された頃。さらに、難病手帳が届いたのは、父が亡くなってからのことでした。書類を手にしたとき、「遅かったね」とつぶやいた自分の声が、今も耳に残っています。
そしてもうひとつの後悔――それは「終末ケア」の知識がなかったことです。介護の“入口”はわかっていても、“出口”である「看取り」までは考えが及んでいなかったのです。
また、がんの告知をどう伝えるかにも悩み、結果的に父を怒らせてしまいました。さらに、コロナ禍で面会制限がある病院を選んでしまったことで、最期を看取ることも叶いませんでした。
貯めておいた「信頼貯金」と仕事のスキルをフル活用
父の入院が決まるまで、私は計画年休も突発年休もたくさん取りました。そのため、仕事が思うように進まず、後から挽回するのが本当に大変でした。
ようやく父が入院し、「これで仕事に集中できる」と思ったのも束の間、今度は電話の嵐が始まりました。父から、母から、家族から。医師、看護師、ケアマネジャー、介護認定の役所、福祉用具の業者まで。ひとつ問題が起こると、それぞれが私に連絡してくるのです。仕事中は電話に出られず、かけ直してもつながらないことが多く、焦りと疲れが募っていきました。
そこで私は思い切って職場に事情を説明し、「仕事中でも介護関連の電話には出る」ことを認めてもらうことに。職場の理解を得られたことで、情報をその場で整理し、関係者との調整もスムーズに進められるようになりました。問題解決が早まると、父も母も少しずつ情緒が安定していきました。
この柔軟な対応ができたのは、職場で築いてきた信頼関係があったからこそ。私はそれを「信頼貯金」と呼んでいます。日頃から誠実に仕事に向き合い、困ったときにはお互いに支え合える関係を作っておく。仕事と介護の両立には、そんな「信頼の積み重ね」がとても大切だと実感しました。
そして、私の両親は、「トイレやお風呂の世話は家族、特に女性の仕事」という考えを持っていました。けれど、介護の現場を支えるためには、家族だけで抱え込まないことが何よりも大切です。介護サービスを利用してもらうには、私が「仕事を持っている」という事実を、いわば“水戸黄門の印籠”のように示す必要がありました。だからこそ、どんなに大変でも仕事を手放すわけにはいかなかったのです。
仕事を続けて得られたのは、収入だけではありません。職場で培った交渉力や判断力が、介護サービスの調整や業者とのやり取りで大いに役立ちました。「介護のアウトソーシングを手配することも、立派な介護の一部」だと今では思います。
そしてもうひとつ。介護を通して築いた人とのつながりは、いつか自分自身の“終活”にもきっと生かせるはずです。
仕事と介護を支えた「知識という宝」
父に自動車免許を返納してほしかった私は、徒歩での買い物に便利な「シルバーカー」を近所のホームセンターで買っておきました。それがきっかけで、さまざまな福祉用具が近所でも買えることを知りました。
福祉用具は介護保険を使えば安く利用できます。しかし、地域包括支援センターにつながっていなかった父が、ある日突然、支えなしでは動けない状態になってしまったのです。なんとかしなければ、私が仕事を休んで介護するしかありません。急いでホームセンターに走り、「四つ足歩行器」「置き型手すり」「段差解消スロープ」を買いそろえました。すべて自費ですから高額でした。それでも、情緒が不安定になっていた父と母を少しでも落ち着かせるためには、必要な買い物でした。
私が救われたのは、「福祉用具を選ぶコツ」を知っていたことです。以前、地元の広報誌で見つけた介護入門講座を受けていたからでした。講座で得た知識が、緊急時の判断や商品選びに本当に役立ちました。
「知識は宝」です。
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